木村政彦は最強で伝説が凄い!ベンチプレスの逸話が規格外すぎ?!グレイシーとも対戦してた。


貴方は木村政彦という人物を知っていますか?彼は柔道界の伝説です。柔道をしている人で彼の事を知らないとすれば、相当マズいです。それぐらいの人物です。彼はブラジルでも名をはせるほどの柔道家です

 

あの『エリオ・グレイシー』と戦った事があるぐらいですからね。その一戦で、使った技が『キムラロック』とネーミングもされています。とにかく、凄すぎる人物なので紹介していきます

木村政彦は柔道最強と謳われる事が多い!伝説が凄すぎ!

画像出典元:『instagram』

木村政彦さんは1917年9月10日に熊本県で誕生し、1993年4月18に亡くなっています。飽託郡川尻町という場所に産まれたのですが、木村さんが柔道を始めたのは1935年の時だったと言われていて、牛島辰熊という中学の先輩に素質を見出され、その牛島さんが開いていた『牛島塾』という道場で稽古を積むことになりました。

牛島さんは、かなり怖い師範で有名だったようで、『鬼の牛島』や『猛虎』と恐れられた人物です。牛島さんが柔道をしていた時は史上最強だと謳われていたようですね。そんな人から柔道を教わる事になったのですから、強くならない訳がありません

牛島さんは朝起きて60㎏の重量物を引きながら走ったり、夜中には重たい石を抱えるなど、とにかく身体に負荷を掛けて筋肉を付けている事が分かっています。大木に帯をくくり、背負い投げの打ち込みを千本もしていたと言われていますね。

そして試合の当日には蛇のマムシを粉末状にしたものを飲み、アドレナリン全開で相手に襲い掛かっていたそうです。その前日にはスッポンの血を飲むといった情報もありました。そんな事をしていた人ですから、至極当然のことながら怖すぎる顔をしています。(笑)

画像出典元:『twitter』

睨まれた瞬間ちびるわ...

ね。こんな怖い顔をした人、今まで見た事がありません。牛島さんは『戦争の時代』に、東条英機を〇そうと考え、捕まった事もあったそうです。とにかく怖い人なんです

そんな牛島さんは木村さんに対し、「一度ぐらい勝って喜ぶんじゃない。十回連続で優勝してから喜べ」と発言しています。その言葉に対し、木村さんは「分かりました。では、二十連覇を狙います」と返答したそうです。

 

牛島さんは木村さんの精神力の強さを見切って柔道の世界に誘ったんかもしれへんな。

そうかもしれませんね。

画像出典元:『旅ムック』

木村さんは牛島さんとの稽古でメキメキと頭角を現し、旧制鎮西中4年生(高校一年生)の時に講道館四段を取得谷亮子が現役時代と同じ段位)。因みに、その学校は現在鎮西高等学校という名称に代わっているようです。

その後、拓殖大学に進学し、学生柔道でレベルが高い高専柔道(今は消滅)に大将で出場。優勝に導いています。

その後木村さんは1937年から1939年に行われた全日本選手権を三連続で優勝しました。1940年は全日本選手権が行われなかったようで、その代わりに昭和天皇天覧試合が開催されたようです。その大会でも勿論優勝しています。それも5試合でオール一本勝ちです。

 

凄すぎ。

はい。伝説と言われる理由が分かるでしょう。『熊本の怪童』と言われ、恐れられていたようです。

その後は戦争が始まったので、大会が行われる事が無く、試合をする事が無かったようですから、もし戦争が無ければ物凄い記録を打ち立てていたかもしれません。1940年の昭和天皇天覧試合の後に開催されたのはおよそ9年後の1949年でしたから。

木村さんはその年の全日本選手権にも出場し、優勝しています。本当にスゴイですね。よく、そこまでポテンシャルを保てたなと感心するばかりです。

画像出典元:『https://www.sandinista.xyz/entry/2018/08/29/170852』

1949年の全日本から10年後の1959年には、ブラジルにて『エリオ・グレイシー』の弟子だった『ヴァルデマー・サンタナ選手』と試合で対戦して2連勝しているようです。その試合は、参ったか、締め落すかどちらかじゃないと決着がつかない試合だったようですね。

 

そんな壮絶なルールやってんな。ヤバすぎ。

ね!その試合に負けたサンタナ選手は打撃アリの試合で木村さんに勝とうと考えたのか、対戦要求をしています。そして、木村さんは了承。その試合では40分間戦ってまさかの引き分けだったそうです。

 

まじ?普通に勝ったと思ってんけど。

実はこの時、木村さんは左足を負傷して、まともに歩くことすらできない状態だったようですね。その状態での引き分けですから、もはや勝ったようなものです。

このように怪物級の人ですから、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われるぐらいです。彼は、これまでの日本の柔道家で最強と言われる人物なのです。



木村政彦とグレイシーは戦っている。その時掛けた技の名前が『キムラ・ロック』と命名されている。

画像出典元:『ミドルエッジ』

グレイシーという人物を知っていますか?

 

知ってる。グレイシー柔術の人やんな?

はい。グレイシー柔術を創設したのがエリオ・グレイシーという人物です。日本で総合格闘技がメジャーになった時、ヒクソングレイシーが活躍していましたよね?その人物の父親です。その人と木村さんは試合をしています。

エリオと戦ったのは1951年10月23日です。ブラジルの『マラカニアンスタジアム』という場所で戦いました。木村さんは柔道、エリオは柔術という異種格闘技戦ですね。

その戦いをするまでにエリオは何人もの柔道家と戦っていたようですが、負けが無かったそうです。

 

めっちゃ強いやん。まあ、グレイシー柔術が強いと言われる意味も分かるわ。

はい。エリオの人生で敗北は1回だと言われていて、それが木村さんなのです。

 

マジか...

こんな柔道家は一生現れないでしょうね...

 

試合の話に戻りましょう。

試合は先ほどのサンタナ戦と同じく、勝敗は参ったか失神するかのどちらかのみ。打撃はありませんでした。その試合で木村さんはエリオの腕を折ったのです。

 

...

 

エリオは腕が折れているのにも関わらず、ギブアップしなかったと言われています。ですから、エリオ陣営がタオルを投げ、木村さんの勝ちが決まったのです。

 

エリオの精神力には脱帽。

並大抵の精神力じゃないことが分かりますよね。

そんなエリオは木村さんに対し、こう言っています。

「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘られぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」

引用元:『note.com』

あのグレイシー柔術の創設者がこのような評価をしているという事は、恐らく日本柔道の歴史において、木村さんが最強だという事ですね。



...エリオと対戦した時の技がこれです。『キムラロック』と命名されてます。

画像出典元:『twitter』

余談ですが、この試合が組まれるようになった経緯は、敗戦国である日本の『大和民族』としての誇りを取り戻そうと考えたためだと言われています

 

木村政彦のベンチプレスの逸話がヤバすぎる!握力はどれくらいあったのか調査!

画像出典元:『ヤフー知恵袋』

木村さんは身体がグラップラー刃牙ばりの筋肉を誇っていますね。彼は、ベンチプレスを250㎏あげることが出来ると言われています。「木村政彦はなぜ力道山を〇さなかったのか」という本に書かれていると情報があります。

その本を見た人が言っていたのですが、木村さんはベンチプレスで80㎏を600回連続で上げると書いてあったそうです。それだけにとどまらず、200㎏を数百回上げていたそうです。

 

いや、人間ちゃうやん!それホンマなん?

そう書いてあったようなので、事実ではないかと思いますが...

この身体を見て下さい。

画像出典元:『ヤフー知恵袋』

 

怖い!w

身体を見ると、狂気すら感じますよね。木村さんは牛島さんの指導でウエイトトレーニングを始めた木村さんですが、100キロのバーベルを1時間でずっと上げ続け、それが終わってから腕立てを1000回していたようです。そんなトレーニングをしていたら、先ほどの250キロの話も本当なのではないでしょうか。というより、そう思いたいです。

木村さんは並外れた筋肉をまとったお陰で、太い鉛で出来た棒を曲げたり、牛島さんを涼ませるために畳を仰ぐなど意味が分からないことをしています。w

電車のつり革の丸い輪っかを割る事も出来たそうですね。しかも、当時はアルミで出来ていたようですから、とんでもない力を誇っていたという事になります。

そんな木村さんの握力は200㎏あったと噂されています...

 

握力がチンパンジー並みやん!www

 

木村政彦の筋肉が規格外!トレーニング方法

画像出典元:『wikiwand』

木村さんのトレーニングは壮絶で、なんと一日で10時間もしていたと言われています。それに加え、睡眠はたったの3時間。しかも、寝ながらイメトレをしていたと言われるほど。

 

そうなんや。

いや、そうなんやって何ですか。w

...

木村さんは起床すると、巻き藁を突きます。目的は腕を丈夫にするためです。その後拓殖大学で稽古し、帰った後は大木に帯を巻き、1000回もの打ち込み。そしてウサギ飛びを一キロ。そしてウエイトトレーニング。そして腕立て1000回。

そんなトレーニングをしていて強くない訳がないですよね。

木村さんは強さを追い求めるあまり、松濤館空手の道場へ通ったりボクシングを習ったりと、己を追及しています

因みに木村さんの柔道時代の必殺技は大外刈りでした。その技のキレがあまりにも凄いので、練習で使う事は禁じられていたほどです。その技により、失神する人が多数いたそうですからね。

 

どんな練習やねん...

いや、それはもう凄まじい光景だったでしょうね...

大外刈りの他には、腕がらみも得意だったようで、どの姿勢でも取る事が出来たようです。練習では脱臼する人が多数いたようです。。。

 

練習生も溜まったもんじゃないなw

ね。まあ、仕方がありません。

木村さんの筋肉が凄すぎるので何を食べていたんだと言っている人がいたので、調べてみましたが米を17杯ぐらい食べていたようですね。そして、野良犬を食べたとの情報もあります。

とにかく、食べて食べて食べまくっていたようです。かなり長い練習時間だったですから、勿論太る事はありませんでした。



有名人が木村政彦の凄さを語っている!

画像出典元:『https://meigen.keiziban-jp.com/gozo

塩田剛三さんが木村さんと腕相撲をしたことがあるようです。計3回したことがあるようですが、なんと塩田さんは木村さんに1度勝っています。まあでも、木村さんは最後手加減したと言っていますが...

とまあ、そんな話は置いといて。

塩田さんは元々合気道をしていた人なんですが、「木村の練習を現代の人間にやれと言っても無理だろう。今の柔道選手じゃ木村に勝てない。世界レベルの人間も簡単にやられる。木村よりも図体が大きい人間でも、簡単に吹っ飛んでた」といった発言をしています。

...木村さんと闘った事がある松本安市さんは「木村政彦はスピードと技が他に比べてずば抜けてる。化け物だ。誰も相手にならない」と語っています。

画像出典元:『https://oitachi-ima.com/legend/3841/』

極真空手の創始者である『大山倍達』さんは、「木村が一番強い時代だったら、ヘーシンク(東京五輪金メダリスト)やルスカ(ミュンヘン五輪金メダリスト)は3分持たないと断言する」と発言しています。

画像出典元:『https://miruhon.net/105569』

柔道家の遠藤幸吉は、「強いとかいうレベルじゃない。稽古をして貰ったことがあるけど、木村さんは岩のようで、組んでも動かない、1㎝も」と発言しています。

 

 

木村政彦はなぜ力道山を○さなかったのか。

画像出典元:『amazon』

木村さんは1950年に牛島さんが立ち上げた『プロ柔道』という国際柔道協会に入りました。そこで、優勝するなどしていますが、客も満員にならず下降していき、なかなか稼ぐ事が出来ませんでした。そのせいでファイトマネーが支払われる事が遅れたりと散々な結果に

その時期に木村さんの嫁さんが病気にかかり、莫大な金が必要になったので「ファイトマネー未払いはまずい。」そのように考えたとされる木村さんはプロレスラーに転向する事を決めたのかもしれません。

因みに木村さんはハワイで開催された柔道の興行に参加した時、たまたまプロレスのプロモーターが木村さんを見てスカウトしたようですから、木村さんからしたらタイミングが良かったのでしょうね。

そのような経緯があってプロレス業界に入った訳ですが、力道山とタッグで活動するようになってからはいつも力道山の引き立て役存在だったので、不満を感じていたようです。

 

そらそうやわ。あれだけ強さを追及してきた人間やし。プライドが傷ついてたんやろう。

ですね。そう思います。力道山はスター的存在でしたから仕方ないっちゃ仕方無かったのかもしれませんが...

そんな木村さんは「プロレスはショー。真剣に闘ったら力道山に負けるはずがない」と発言し、力道山をキレさせてしまったようです。その発言があり、あの『昭和の巌流島決戦』が開催される運びとなりました。

そして蓋をあければ力道山に滅多打ちにされ、KO負けを喫しました。この戦いは力道山のブック破りで木村さんが負けたと言われていますね。どうやら、木村さんが金的を攻撃したことで力道山が腹を立てたためというのが真相のようです

力道山の息子である『百田光雄』は、「金的攻撃をされた父親の表情が蒼白になった。」と語っています。力道山の顔がそのようになるのは本気で怒ってる時だと言っていますからね…

ブックでは、初戦がドローで二戦目以降は勝ったり負けたりを繰り返しながら全国各地で興行を行う予定だったと木村陣営は証言していたようです。という事は、力道山がキレなかったら両者ともに稼げたという事になりますね。あまりにも勿体ないです

因みに、両者は和解しています。

 

プロレスじゃなかったら木村さんは力道山を〇してるかもしれんな。

 

力道山との戦いに敗れた木村政彦のその後。

画像出典元:『pinterest』

木村さんは力道山に敗れ、その後1961年に柔道界に復帰しています。拓殖大学の柔道部監督を務め、全日本学生柔道大会で優勝に導くなどし、指導者としての力も発揮しました。

この柔道界の復帰も牛島さんの誘いだったようですね。木村さんの当時の逸話があって、それは「五輪候補選手ですら木村さんに全く敵わなかった」という事です。そう言われたのは1966年の事だったようですから、当時の木村さんの年齢を調べると50歳ぐらいですね

 

いや~。木村さん、マジで規格外やわ。

 

木村政彦の名言!

画像出典元:『ameblo』

木村さんの名言で有名なのが、『三倍努力』ですね。

人の二倍努力する人間は絶対に居るから、三倍努力して安心していた」とのことです。木村さんのこのような考えに至ったのは、20歳の頃の全日本戦士権で延長になった事が要因みたいです。

木村さんは試合で負ける事は『死』を意味すると語っていて、試合前には短刀で切腹の練習をしていた程ですから、半端じゃない気持ちで試合に臨んでいた事が分かっています。そんな彼が『三倍努力』と言っても、普通の人は理解が出来ないでしょうね...

 

まとめ。

如何だったでしょうか。日本の柔道の歴史で恐らく最強の人物は、この『木村政彦』さんですね。極真空手の大山倍達さんが言う「ヘーシンクやルスカでも3分持たない」を聞くと、尚更そう思います。金メダリストが3分持たないという事は、もう歴代最強と言っていいでしょう。

彼のベンチプレスやトレーニング法は誰もマネが出来ない事ですし、それゆえ木村さんは伝説の柔道家と言われているのでしょう。

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