
暴力団最大の組織、山口組。この単語を知らん日本人はおらんはず。この組がどのようにして出来たか、そして歴代組長がどんな人やったんか紹介する事にした。
山口組の歴代組長はどんな人なのか、そして歴史を分かりやすく説明します。
暴力団山口組の創設者は『山口春吉組長』。1915年に神戸で沖仲仕(港湾の荷受け人)を集めて人夫給(日雇い)を主業として創設した。
- 2代目の組長は創設者である山口春吉の長男の山口登で、山口春吉が存命中に組長を譲ってる。
- 3代目は田岡一雄という美空ひばり、力道山など多くの芸能人と関りを持った人物。
- 4代目組長は竹中正久組長で、選任に揉めた末、三代目組長の妻の田岡文子からの推薦で山口組組長に就任。
- 5代目組長の渡辺芳則組長は、1989年3月、一和会との抗争が終結後、4月27山口組組長に就任。
- 現在の山口組六代目組長は皆さんご存知の司忍で、2005年7月に山口組組長に就任。
初代山口組・山口春吉組長の生い立ち、逮捕歴、死因
山口組の創設者であり、初代山口組組長の山口春吉(やまぐちはるきち)は、1881年に誕生。兵庫県津名郡仮屋浦の出身。山口春吉は、1910年頃まで漁師をしてたんやけど、その後、労務者として神戸港に移住した。
最初は、神戸市生田区にあった海運業の倉橋組という所で働いて、持ち前の統率力で小者頭になった。んで、1912年頃に神戸港で造船所の用心棒などで勢力のあった大嶋秀吉率いる大嶋組の傘下に入る。大島秀吉はヤクザやった。
山口春吉は、大嶋組の下で頭角を現して1915年には沖仲仕(港湾の荷受人)の50名を集めて、人夫供給(日雇い)で主に収入を得る山口組を創設した。山口組を創設した後には浪曲興行にも進出して、組長としての基盤を確立したんや。
浪曲ってのは、三味線を伴奏にした独特の芸。語りながら三味線を弾くというショーみたいなもの。
まあ、その話しは置いといて。
山口春吉は、大長政吉を襲撃して〇人罪で逮捕起訴され、ほんで神戸地裁で懲役8年の実刑が下された。山口春吉には山口組2代目になった長男の登と、次男の秀雄がおる。
山口春吉は、1925年に跡目を長男の登に譲って引退して1938年に57歳で亡くなった。事件で亡くなったという訳ではないけど、死因は分かってない。分かってないから怪しいけど、この事は謎に包まれたまま。
二代目組長山口登組長の生い立ち、逮捕歴、死因
山口組の2代目の山口登は、さっきも言ったけど山口春吉の長男。山口組創設後10年で組長に就任したんやけど当時まだ23歳という若さやった。その頃の山口組は大島秀吉率いる大島組の系列やったけど、なんとその大島組との抗争が勃発。
山口組は大島組に上納金を収めへんくなって大島組からは破門された。破門後は敵対関係となって山口組の組員が大島組の組員を〇害したことでますます関係が悪くなるというヤバい展開。
山口登は、その後に吉本興業と提携したり、ボクシングのタイトルマッチを仕切ったりと興行にも進出したと言われてる。他には、相撲界や歌謡界などにも事業を広げた。
山口登は41歳で亡くなるまで逮捕歴は無かったけど、1940年に吉本興業をめぐった抗争で、下関の籠寅組と揉めて日本刀でボディーガードをヤラれてる。
その時山口登も18箇所の傷を受けながら一命を取り留めたんやけど、1942年10月にその傷がもとで41歳で亡くなってもうた。早くに生涯を終えてしまったという訳。
んで、実は2代目の時代までは港湾荷役と興行が主な収入源で、ヤクザじゃなかったと言われてる。そう、という事は、3代目の田岡組長が勢力を大幅に広げ、山口組を全国に轟かせたって事。
三代目組長田岡一雄組長の生い立ち、逮捕歴、死因
画像出典元:『https://kszend.info/?p=6063』
山口組三代目の組長である田岡一雄は1913年3月28日生まれで徳島県三好郡の出身。長男は音楽プロデューサーの田岡満氏、長女はエッセイストの田岡由伎。
田岡一雄は、徳島県三好郡で誕生したけど貧しい家庭やった。小作農家に生まれて、そのときに父親は既に病気で亡くなってた。んで母親も小学校1年生の時に過労で亡くなってるから悲劇的な幼少期を過ごしてる。
その後は叔父の河内和四郎に引き取られてるんやけど叔父は酒飲みで暴力を受けていたそう。こんな過去がある人間は非行に走るパターンってホンマに多いよな。
田岡は兵庫尋常高等小学校に入学したんやけど、卒業してから地元の川崎造船所に入社した。でも2年後に現場主任をどついて退社。普段から気が短かったことが想像できる。
んでその後、小学校時代に山口組二代目の弟の山口秀雄と同級生やったから、秀雄の誘いで叔父の家を出て、山口組の世話になった。その時は夜警の仕事をしながら不良グループに加わってた。
...田岡は1932年にこんな事件を起こした。それは『幕下力士の宝川』が山口登の舎弟の大関玉錦を侮辱したことがキッカケ。田岡は宝川を短刀で襲い、右手の指2本を切断し額を割る事件を起こした。ヤバすぎるよな。
んで1934年には、海員組合の労働争議で、山口登の舎弟やった西田幸一が組合員たちに〇害されて、報復を決意。襲撃して組合長を斬りつけた。キレたら直ぐに報復するというヤクザそのものって感じの人物やった。んでから九州へ逃亡したけど、その後出頭した。事件を起こしたから傷害罪で懲役1年の実刑判決を受けた。
その後には山口登の舎弟の古川松太郎のもとで三下修行(博打の雑用をする見習い的存在)を積んで、1936年1月20日に山口組の一員になった。
加入した1年後の1937年2月25日には再び仲間を愛するが故の行動を起こす。山口春吉の舎弟の暴力を振るった大長政吉を福原遊郭で襲撃したんや。何をしたんかと言うと、鉄瓶で頭を割る事件。昭和にはこんな事件がよくあったような気がするな。
相手も黙っちゃいないから報復に来た。田岡は殴り込みに来た大長八郎を日本刀でイッテもうた。この事件が原因で逮捕された。〇人罪で起訴されて懲役8年の実刑判決を受けることに。
1943年7月に出所したけど、前年の1942年に二代目組長の山口登が亡くなってたから自ら田岡組を組織したという流れ。
その後、1946年に山口組の偉いさん達の推薦によって、山口組三代目組長を襲名した。襲名後は、港湾荷役と神戸芸能社が組の二大収入源になって、襲名時の組員三十数人やったけど着々と拡大させた。
この頃、敗戦国で外国人のやりたい放題状態やったから、山口組は対決する姿勢を見せてて、田岡組を結成したとも言われてるな。こういう話を聞くと、全うな事を考えてたんかと思うけど、やっぱりヤクザはヤクザ。駄目なモノは駄目。
田岡が山口組を襲名した時の組の人数は33人やったけど、それから約30年後には1万人を超えてるからとんでもなく勢力を伸ばしたことになる。
最後は急性心不全によって68歳で亡くなった。1981年7月23日やった。
四代目組長竹中正久組長の生い立ち、逮捕歴、死因
山口組四代目組長は、有力候補やった山本健一が1982年に肝硬変と腎不全を併発して亡くなった後、後継者をめぐって他者と揉めた。泥沼になるかと思いきや、三代目田岡一雄の妻やった田岡文子の推薦で1984年6月5日に竹中正久が山口組四代目を受諾する事に。
そんな竹中正久は1933年11月30日生まれの兵庫県出身者。旧制姫路市立鷺城中学校を中退したんやけど、何回も暴力傷害事件を起こして逮捕されてるヤバい人物。
そんなことから竹中正久は、ヤクザからも一目置かれるようになってて、1960年8月に地元の不良を集めて竹中組を結成してる。
んでその翌年の1961年12月13日に田岡から盃を受けて直参になった。竹中が武闘派と呼ばれる所以があるんやけど、一つ紹介すると1962年に数百人の部隊と一緒に福岡の敵地に乗り込んで襲撃。とにかく相手をつぶすことに注力したヤバすぎる人間やった。
せやから山口組内でも武闘派として絶大の信頼を受けてて、1971年には若頭補佐になった。それから数年経った1978年2月に、地元組織との抗争で懲役2年の実刑判決を受けた。その結果1979年9月まで神戸刑務所に服役した。
山口組四代目に就任してから、田岡文子に反発した山広派は山口組を脱退して一和会を結成したんやけど、武闘派の竹中の攻撃に除々に弱体化していく事に。焦った一和会は竹中暗〇を計画し、暗〇部隊を結成。
仲間やったヤクザの中でも熾烈な争いが繰り広げられるとは、当時の日本人は肝が据わってる人間が多かったんや。
で、1985年1月26日に竹中はヤラレル事に。大阪府吹田市のマンションで待ち伏せしていた一和会二代目山広組系組員に銃撃されて竹中は、意識不明になり翌日の27日に亡くなった。同時に同行していた若頭の中山勝正もやられてもうた。51歳で生涯を終えた。
五代目組長渡辺芳則組長の生い立ち、逮捕歴、死因
山口組五代目組長の渡辺芳則は、1941年1月8日生まれで栃木県の出身。1956年に中学を卒業後に、17歳でヤクザの世界に入った。浅草を中心に活動してたんやけども、山口組の山健組の幹部と出会ったことで神戸に移住した。
1961年に山健組組長やった山本健一から盃を受けて山健組に加入。んで1969年に山健組若頭に就任した。1976年10月に二代目松田組との抗争事件に関与。ほんで銃刀法違反の容疑で逮捕されて懲役2年4月の実刑判決を受けてる。その結果1979年2月から1981年6月まで服役した。
山口組は1989年3月に一和会との抗争が終結してんけど、渡辺は4月27日に5代目山口組組長に就任してる。渡辺は、2004年に体調不良で長期静養を宣言。2005年に引退する事になる。
ほんで2012年12月1日、神戸市中央区の自宅で亡くなった。71歳やった。死因については分かってないけど、渡辺は脳が弱っていたらしい。因みに、酒は全く飲まれへん体質やったみたいやから、肝臓の病気では無さそう。
六代目組長司忍組長の生い立ち、逮捕歴、死因
皆ご存知の山口組六代目組長の司忍は、1941年1月25に生まれで大分県出身や。本名は篠田健市なのは有名な話。大分県立水産高等学校を卒業後に元の大手水産会社に就職してる。その後に大阪を経て名古屋で1962年、三代目山口組系鈴木組内弘田組に入った。
中京地区では武闘派として活動して弘田組最高幹部を務めた。その後は、自らで司興行を設立したのはマニアなら有名な話。
実は過去にこんな事があった。山口組四代目の座を巡って揉めていた頃に弘田組の組長である弘田武志は山本広という人物を後継者になるよう支持してた。でも結局竹中が四代目になったよな。
その時司忍は弘田武志を説得して、弘田組は一和会にも四代目山口組にも加わらずに弘田組を解散しヤクザを引退した。それから司忍は、弘田組におった構成員らを伴って弘道会を結成して山口組直参に昇格したって経緯がある。
1997年8月28日の宅見若頭射〇事件で、護衛のヤクザに銃を持たせたことによる銃刀法違反容疑で指名手配されて翌年の1998年6月に逮捕された。ほんで起訴されたんやけど、1999年7月に10億円の保釈金で保釈された。
釈放されて約5年経った2004年2月24日には懲役6年の逆転有罪判決を受け、判決後に収監されたんやけど、10億円の保証金によって即日保釈された。2回目も10億ってやばくないか?計20億って計算になるよな。それだけこの人物の影響力が凄まじいって事。
2005年3月、二代目弘道会総裁・弘田組組長に就任後、7月に六代目山口組組長に就任したんやけど、同年11月に懲役6年が確定してムショに入った。2020年現在も六代目山口組の組長。
まとめ。
山口組創設者である山口春吉初代組長から現在の山口組六代目組長である司忍までの歴代組長の生い立ちや経歴、逮捕歴や死因などを紹介した。山口組の組長までのし上がる人物は、それなりの才覚と上部に認められる要素があったことが分かるよな。
しかし人物像がヤバすぎるのは田岡一雄かな。報復が多いし超攻撃的な性格だった事が分かる。まあ、ヤクザはそういう人間じゃないと生きて行かれへんってのは誰にでも分かると思うけど、改めて過去を振り返ると衝撃的でヤバかったな。
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